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■数奇屋小論文集

 1数奇屋のスキという言葉は、もともと「好」という字が当てはめられ、偏愛、執着する意味であった。それが中国から禅僧によってもたらされた茶が、室町時代「茶の湯をたしなまぬ人は人にして人にあらず」といわれるほど大流行するようになり、数寄とは風流の道に深く心を寄せる公職・茶の湯等をしめすものになった。数寄とは、世間一般の評価にとらわれず、己の感性が認めるものの価値を信じて新たな美を創造することである。ここで言う美とは客観的な美ではなく、主観的な美で良いのである。

私は己の感性を信じて、さまざまな実験をしようとしている。荒縄を障子の桟に用いたのもその一つである。残念ながら、カビが生えて失敗に終わってしまったが。金属板を壁や天井に使ったこともあった。無機的な金蔵板は、温かみが無く相当苦心しないと美しい和風は出来ない。材質、色彩、肌触り、プポーション、さらに光りに意を用いないと下品になる。伝統的な美といえる数寄の心が創れない。心をこめて伝統の数寄の心を念じないと失敗する。建て主の同意を得られず、話だけに終わったこともある。建て主にも挑戦する心がないと実現できない。岡本太郎ではないが、「芸術は挑戦」だと私は思う。ご理解ある建て主の現れるのを待ちたい。

 2  数寄屋造作

数奇屋建築の造作は多種多様である。銘木屋を覗いてみると、種類の多さ形の多様さ、美しさに心踊る思いがする。造作材を考えるときは、豊富な知識経験が必要だ。 私は、銘木はあまり使わず、数奇屋をイメージして造作材選びをする。審美眼で仕上げ面を分割し検討することに意を用いている。開口部も難しい。広縁や濡れ縁は屋外、つまり自然と対峙するので、その難しさは数寄屋住宅の真髄だと思う。軒先もまた難しい。畳に座った目の高さが基本になり、外壁の量や屋根の量、重さから軒の深さ、高さを決めて行くが、古代の日本人の背の丈が現代人より低いのでどうしても低くなる。これが現代の若者には分からない。頭がぶつかりそうになるといって抵抗する。やはり身長が6尺近くもある現代の若者には数奇屋は設計できない。故村野藤吾も背の丈は5尺4寸ほどであった。座敷に使用する材料は少ない方がよい。材料を少なめに絞り、日常生活の「行」のイメージに「草」を加味して纏めると柔らかな「はんなり」した座敷が出来上がる。すべてイメージと感性がポイントであるように思う。

 3 数奇屋の監理

数奇屋の建築は、経験豊富な施工者で無いとできない。大工仕事が中心になるが、数奇屋大工のコストは通常3倍は高い。普通の住宅の3割程度は工事費アップになる。数奇屋住宅は繊細な職人の技術を惜しまず手間隙かけて作ることが基本である。これはものづくりの基本であるが、手間隙かけずに早く安く作ることが普遍になってしまった現代では、貴重なことになってしまった。今日、都内では防火制限が多く、数奇屋住宅はほとんど建てられなくなっている。私は鉄筋コンクリートで数奇屋住宅を創ったが大変苦労した。木は「燃えしろ」があって普通の火災では燃え尽きることは、悪条件が重ならなければ無いのだが、木は燃えるという考えから法を作るものが抜けられない。延焼を防ぐことは監理の段階でもしっかり留意しておく必要はある。使用材とその収まりがその意味で大変難しい。

 4   数奇屋あれこれ

私は京都が大好きで東京に居ても京都へはそれなりの回数行っている。 京都の雨の降り方は東京と違う。京の雨は「しとしと」、東京の雨はざあざあと降る。 したがって同じ雨でも、軒の出を変えなければならない。同じ軒の出では、壁に降りかかる雨の量が違ってしまう。屋根勾配も変えなければならない。雨仕舞も変えなければならない。もっとも地球環境悪化で最近は全国的に豪雨が多くなってしまった。 土質の違いもある。京都の庭は杉苔で覆われるが、関東はべったりしたゼニゴケしか付かない。関東ローム層は排水性が悪く湿度が足りないので、関東は床を京都より高くしないと、土台や柱が痛みやすい。京間、江戸間の違いも真に大きい。ご承知のように京間は5尺3寸、1尺1寸5分の畳を敷き畳割りであり、江戸間は6尺の柱割りである。京都のおおらかさ、「はんなり」はこの広さから生まれるように思う。自然条件の違い、寸法基準の違いは数奇屋建築に深刻な影響を与えた。その中で関東は京都と異なる「粋」の建築を作り出したように思う。京は「はんなり」、江戸は「粋」がその本質である。江戸の「粋」には「やせ我慢」が感じられる。私は京の「はんなり」の方が好きである。

 5 モダン和風

住宅は小住宅でも1室は和室が欲しい。それは応接間、客間、来客の寝室として、(ハレとケの普段使われない部屋ではなく、)洋間ばかりの生活の中に、「和みと潤い」をもたらす空間としての和室が欲しいと思う。畳は縁のない琉球畳でよい。長押も鴨居も要らない、大きな人でも頭が当たらないように、開口部は5尺7寸でなく、1820mmはとりたい。畳も洋間と床は同じ高さ(ぞろ)でよい。障子は大きく、桟の間隔の大きい「大間(おおま」障子」でよい、雪見障子にして下半分裏はガラスにしたい。壁も天井も金属とかコンクリート打ち放しでもよい。数奇屋の心をしっかり持って、「粋」のセンスを追求すれば、モダン和風が出来ると思う。色々な材料を使用し、デザインも試みることが出来る。和モダンは真に楽しい。そして美しい。

 6   数寄の心

数寄とは「数奇屋」の「数寄」とは「好き」の当て字であると「広辞苑」に書いてある。この当て字はいつ頃から使われだしたのだろうか。1532年に村田宗珠が茶屋を見学した時の感想として、「当時数寄之張本也」と書いている。1500年代初めには「数寄」は「茶湯」「茶湯を行う囲い」を示す言葉として定着したようだ。つまり「数奇屋」は「茶湯を行う囲い」となる。 一般のお方は百人十色のイメージを持っていると思われる。 専門家は、室町末期から安土桃山時代に茶の湯数寄の茶匠たちが「侘びの風袋に基づいて作った草庵茶室」が数奇屋の原型であるというのが定説と言っている。 「侘び」「寂び」の美意識 「侘び」とは茶道理念を現す言葉であり、動詞「侘ぶ」の名詞である。歌道の成立とともに、歌道の理念となって茶道の極地を表す言葉となった。 「寂び」「古びて益々そのものらしくなること」で歌道において一つの境地を示す理念として用いられ、それが茶道に用いられた。 この対比は「侘びの美」と「寂びの美」は「対比の美」と言える。 数奇屋発祥の歴史 「中国の宋時代のお茶と喫茶方法」の移入は、鎌倉時代すぁる。茶の湯も安土桃山時代に千利休によって大成された。茶湯とともに歩んだ数奇屋も封建時代の落とし子である。「町人」「武家」「公家」それぞれの身分階層、立場の違いによる「生活基礎の違い」「思想・美意識の違い」は、茶湯そのものへも違いをもたらした。「茶禅一味・侘びの町人茶湯」から生まれた「侘びの数奇屋・町人の数寄屋」、「格式・形式秩序・序列を重んじる武家の茶湯」から生まれた「絢爛豪華・武家の数奇屋」「公家の遊芸の茶湯」から生まれた「公家の綺麗数奇屋」と、三つの趣をした数奇屋に分類できる。茶湯の大成者千利休の言う、茶湯の本道は「侘び数寄の自我意識」の「町人の数奇屋」であろう。
実践を重んじる思想の宗教である禅宗の思想から来ていると考えられる。「町人の数奇屋の家作り」は一つの自覚と四つの自我を持って創る家である。「侘び」を中心軸に定めて家作りを行えば、姿も美しく、内容も充実した庶民感覚の簡素な普段着の和の家がつくられる。

町人の数奇屋

一つの自覚とは「数寄は正直で慎み深く、おごらぬ様」の自覚であり、四つの自我とは「心の綺麗さ=心の豊かさの自我意識」「不ぞろい賛美」の自我意識・自由闊達から見立てる自我意識」「大地と人間の強制賛美の自我意識」「春夏秋冬の自然の無心の自我意識」の自我意識の確立が家作りの4つでありこれが基本になる。建て主も設計者も施工者も常に「正直か」「慎み深いか」「おごらぬ様か否か」を問う「侘びの心」をしっかり持って家作りを行えば必ずうまくゆくと感じる。


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