| 【22・新田開発に貢献した武蔵野の玉川上水】 |
玉川上水、重たげに咲き匂う山桜、花と葉は照り映え、しばらくは時の流れも止まるかと思われる武蔵野。縄文時代ガら人々はここに住み、江戸時代方ら、明治・大正・昭和を通し、花を愛する人々も、新しい時代を切り開く人々も、古い伝統に新しい文化と光を付け加えて釆ました。
玉川上水は、江戸市中の人口の増加により、従来の神田上水と赤坂の溜池のみでは飲料水に不足を来たしたため、多摩川の豊富な水を利用しようとして造られた。承応元年(1652年)、江戸代官伊奈半左衛門を水道奉行に任命し、玉川清右衛門、庄左衛門に請負わせ翌年着工し、羽村の取入口ガら四谷大木戸までの開渠を完成したのです。世田谷から暗渠で江戸南部地域に給水され、江戸市中の飲料水として利用された余水が武蔵野一帯に分水され、新田開発に大いに貢献したのです。
玉川上水は武蔵野市の桜橋から少し東に下った所に、江戸初期に開かれた品川用水取入口が遺されています。完成した品川用水の水路は、まず境村で玉川上水から取入れ、連雀新田・野川村(現三鷹市)を通り、下仙川村(現調布市)から現世田谷区の各村から碑文谷村(現目黒区)を経て、戸越村地蔵の辻で2筋に分かれ、1筋は目黒川に落ち、他の1筋は大井村に入っています。
千川用水元禄9年(1696年)に上保谷新田地先で、玉川上水を分水したものが千川上水と呼ぼれています。これは桜上水ともいいました。この上水は、江戸の白山御殿・寛永寺などの将軍の御成関係地に給水するためと、小石川・本郷から浅草方面の町家の水道として利用するために分水されたものです。武蔵野市内では旧関前村・同新田の北を通っていました。
玉川上水・千川上水は現在、水辺として復活していますが、魚類や水生植物、底生生物などは貧弱な状況にあると言って良いでしよう。武蔵野市内の玉川上水は草本が生い茂り、緑豊かとはいえますが、親水的な利用はし難く、上水沿いのゴミはイメージを著しく低下させています。千川上流は玉川上水に比べて親水性が高く、護岸が整備されています。
玉川上水では水辺の生物が比較的多く、シオカラトンボやアメンポも見られます。
玉川上流沿いの環境は雑木林的であるのに対し、千川上水沿いが植栽地等の人工的環境であるためでしよう。付近に住む人々の両上水に対する希望は、「このまま残して欲しい」、「ゴミ等の清掃をして欲しい」、「土の歩道が良い」、「歩遭を歩き易くして欲しい」というものでした。清流を美しく保ち、汚濁してしまったものは復活させたいと考えます。
明治後期の武蔵野村における玉川上水からの分水の1つは、現在の境地区等を流れる砂川分水(旧梶野橋新田分水や境新田分水その他を統合)で砂川村・玉川村・小平村・国分寺村・小金井村・武蔵野村・三鷹村、神代村の8村をもって構成する「砂川村外7ヵ村普通水利組合」に対し、明治9年10月3日認可されたものです。玉川上水からの分水の1つに品川用水がありますが、この用水の洗場で洗えるものは野菜・日用品・農具類に限定され、汲み出し使用は禁じられていました。これらの用水はもちろん江戸時代から分水が認められたものです。屋敷林の欅が天に向かって、その枝を広く高く張るように、武蔵野の先人は風雪に耐え、村を拓き、町を造り、都市を造ってきました。わが町武蔵野に美しい新しい水辺は是非とも欲しいと痛感する次第です。
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