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【30・美しい国づくり】


 美しい国づくり政策大綱」(2003年)、続いて「景観緑三法」(2004年)が国土交通省から発議され、景観論議がにわかにクローズアップされてきた。大変に結構なことであるが、その運用には難しい問題が待ち構えている。なぜなら景観とは、美的意識にかかわる問題だからである。
 日本ではいままで、「美」は法律の枠外であった。美を取り締まったり、奨励したりする法律は無かった。建築法規にも美に関する条文はないし、建築士の試験でも美に関する問題は出ない。人間だれしも美醜の感覚は持っているが、価値観の激変が続く今日、それを共通認識とするのは容易ではない。さらに言えば、美を表現するには、長く厳しい修練が必要である。美術でも音楽でも文学でも、そうした修練によって専門家が育つ。それらを鑑賞する側も、経験の積み重ねによってより深く美を味わうことができるようになる。そうしたなかで、何をもって「美しい国」というのだろうか。
 現在の日本の都市が美しくないのは、美のトレーニングを積んでいなくとも、構築の技術や法規の知識さえクリアできれば建築士の資格を取ることができるからではないだろうか。美に対する行政の無関心が、それに輪をかける。そうした現実を踏まえ、どうすれば景観法を生かせるかを考えるなら、取り締まる法律の精ち化を図ることではなく、まずは美に対して優れた見識を持つ建築家を育て、景観づくりの任に当てることである。美とは、法治ではなく人治の対象であると私は考えている。
 欧米を見ると、まちの主要な建築の是非を、首長が任命する「シーティ−・アーキテクト(あるいはタウン・アーキテクト)」に委ねているケースがある。シティ−・アーキテクトとは、自らは設計には関与せず、対象となる建築のデザインの是非を第三者的に判断する責任者である。ある世界的な建築家がシティ−・アーキテクトの就任演説を議会で行った際、最後に「市民の意向をよく聞いて任務を全うする」と述べた。多分に社交辞令である。しかし、その時、議員の一人が立ち1がり、「我々は世界的な建築家のあなたの見識に期待してシティ−・アーキテクトを依頼したのだ。それなのに、我々の意見を聞いてそれに従うとは何ごとか⊥と追及する場面があったという。それは、美とは何かを本質的に理解しているからこその発言だつたと言える。
 市民の見識が高ければ、シーティ−・アーキテクトを選ぶ側の行政や議会(特に首長)は、選択眼を鍛えることが必須になる。選ばれる例の建築家にも、その期待に応えるための一層の努力が求められる。果たして現在の日本で、行政や議会に、そして建築家に、その覚悟があるだろうか。大いに疑問であると言わざるを得ない。

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