| 【03・イランの旅】 |
十数年前に松本清張の「ペルセポリスから飛鳥まで」を読んだ。正倉院御物の中に数多くのペルシャの文物があることを改めて知って,日本歴史の1つのルーツであるイランを訪ねたいと考えていた。日本クリスチャン・オリエント研究会会長の故佐藤文男牧師を団長とする、「古代イラン飛球の旅−旧約聖書の周辺を探る」と言うツアーに参加することを牧師から勧められ、1993年の秋、二週間弱の旅に参加した。参加者は12名,10名は敬虔なクリスチャンであった。日本人添乗員はヘブライ大学を卒業したイスラム教,ユダヤ教の専門家であった。
コースは、テヘラン→イスハハン→シラーズ→アフワーズ→スーサ→ディスフール→バフタラン→ハマダン→テヘランである。アフワーズからハマダンに至る専用バスの旅路は、学者グループを除いて日本人が殆ど言ったことの無い旧約聖書の秘境であった。飛行機は国内線も含めてほぼ正確に発着し操縦技術も上手い。ただし機内食はまずい。サービスも良くない。
女忍者のような女性
95%がイスラム教徒であるイランの女性はご存知のようにチャドールという黒っぽいサリーの容易な衣装を頭からかぶる。さながら女忍者である。イラン航空に乗ると、日本人スチュワディスも真っ黒なチャドール姿で現れる。日本人旅行者もこのような被りものをしないと街を歩けない。 同行の日本人女性クリスチャンも髪が見えると、街をあるいていても隠せと合図される。女性は髪と、肌を顔と手以外見せてはならず、勿論身体の線が分かるのはご法度である。夏は南部では50度を超えるというのに、見ている方も何とも暑苦しい。垣間見ると、下着は相当派手なものを身に付けているようだ。色柄のチャドールを身に付けている若い女性も数少ないが見かけた。女の子は小学校へ上がる頃から、チャドールを身にまとうようだ。
マタ、チャドールは宗教的階級によっても少し異なり、他のイスラム教国でもかなり異なるようだ。顔をガーゼのような布で隠している女性にも出会った。ガイドはサウジアラビヤ人だろうと言った。イラン人はご承知のように、目が大きく鼻が高い。クレオパトラの様な美人もいる。チャドールを着ているせいか太り気味の女性も多い。小さな子供は抱きしめたくなるほどかわいい。
オヤジはえらいのだ
男性はネクタイをしない。西欧化を否定しているのである。旅行者もネクタイ禁止。ついでに、ヴィデオ撮影も禁止である。(最もレストランでアメリカ人らしき人が撮影していたが誰も止めなかった)
家族は大変親密で家長である父親の権限は大きく、大黒柱として尊敬されている。さながら戦前の日本の家族のごとき幹事である。また働く女性は殆ど見かけなかった。(売り子は時々見かけたが)テヘラン空港へ到着が午前2時近くというに、小さな子供も一緒に家族が花束を持って空港ロビーを埋め尽くしている。出稼ぎの仕事から帰る父親を出迎えているのである。イスラム教の教義が、ホメイニ革命後、強化された現れは至る所で感じ取れる。
勿論、セックス感情を煽るような出版物や興業、いや言動ですら全て禁止されている。そのような雑誌も本も全て持ち込み禁止、」空港で厳しいチェックがある。元論アルコール類の持ち込みも厳禁である。
アルコールは一切だめ
ご承知のようにアルコール類を飲むのは一切駄目!飛行機の中もホテルも、旅行者といえども一切禁止!ノン・アルコールのビールはあるが、これが恐ろしくまずい。一流ホテルでもノンアルコールビールにストローを指して持って来る、しかも生ぬるい。僅かにオランダ製のヴァバリアと言うビール(ノン・アルコール)がかろうじてビールらしい感じがした。飲み物はコーラかジュース、それもストロー付きで出される。食事はホテルでも街のレストランと同じ物が出される。平等化が行き届いて朝食・昼食・夕食とも、出されるものは殆ど同じであった。テヘランだけが大都会らしく、朝食はヴァイキング形式で種類も多かった。
肉はラムとチキン、ビーフはハマダンのモダンなホテルのメニューで発見し、喜び勇んでステーキを注文したが、驚くほど硬くてまずかった。年配の人は歯が立たなかった。入れ歯のはずれた人もいた。パンは皮のような薄いパン、暖かいうちは美味しいが冷えるとまずい。西欧風のパンもあるが庶民はほとんど食べないと聞いた。11日間の旅の間一番、美味しかったのは伝統料理のパーミセリのポタージュ、ジャガイモを潰して食べるのが美味しかった。
金曜日(休息日)(もっとも厳密には休息日とはコーランには書いていない)でレストランが殆ど空いておらず、飛び込んだ一流レストランはイラン人で込み合っていた。その次に美味しかったのはヨーグルト、後は焼きたてのシシカバブとチキン。野菜も小さな玉葱をそのまま四つ切りにして出してくる。トマトは焼いて出てくることが多い。ラグビーボールのような西瓜も美味しい。果物はとにかく美味しい。特に葡萄は気候が暖かく乾燥している所為か甘く美味しい。バナナも取れるがフィリピン製のチキータが多い。
お米はかなりで慣れたが美味しくない。日本から持って行った醤油をかけて何とか食べた。食事は大皿の料理を取り分けて食べる。一流ホテルでも一人づつの料理が別々に出されることは無かった。イランで食事に期待するのは止めた方が良い。水は飲めるが鉱物質が多くお腹をこわす。空気が乾燥しているので長距離バスには水筒が必需品である。自動販売機は見かけなかった。
床屋がたったの100円
物価は安い。日本の三分の一か四分の一(ただし8年前)たまたま時間が空いてホテルの床屋に入ったが、ヘヤカット・オンリーで100円(1500リアル)である。但し、かなりひどい虎刈リであった。イランはライオンがシンボルなのでライオン刈りか?)シャンプーとシェイビングをしても200円である。
アイスクリームやジュースは15円くらい。焼きとうもろこしは20円。ペルシャ絨毯は住宅の玄関ホールに敷く大きさで2万円から買える。(日本の十分の一くらいか。キャビアは50グラムで40(米)ドルで三種類位あるが常時売っているのは一種類、テヘラン空港でしか買って持ちかえれない。町では殆ど売っていない、イランのキャビアは世界一美味しい。(これは保証する!)金属細工やペルシャガラスやエナメル細工、貝細工、皮製品、毛皮、磁気、居いずれもかなり安いようだ。ホテルや空港のみならず街の市場でもかなり高級品を売っている。めずらしいものとしては水煙草が置いてある。
市場は世界中どこも同じと言った感じ、各地のバザール(ペルシャ語で市場の意味)も訪れたし、テヘランやシラーズのバザールは昔の宮殿を改造したもので品物も豊富。「ヤスイ、ノン・タカイ」と声高い日本人を誘う売り子が居るのも同じ。路上の品物も粗悪品は少なく(但しひどく安いものは粗悪品)とにかく安い。銀行でも日本円は両替も難しく、現地の貨幣(リアル)と(米)ドルしか通用しない。路上の売店や小さな店はリアルのみ。公行った店では英語は全く通じない。たまに「ハウ・マッチ」が通じても、何と「ハンドレッド」が「サウザンド」である。これには参った。後でイラン人にきたところ、10リアルをジュアンと言いこれが単位としてよく使われるため、小さな店でハンドレドと言われたらサウザンドと考えて欲しいと説明された。
クレジット・カードは大都市のホテルと一部の大きな店以外は使えない。
売られている日本製の物はフィルムが目に付く。36枚撮りで400円ぐらい。イラン人にとってはとても高い。カメラや電気製品に日本製もあるが決して多くはない。郵便料金もやすい、航空便がはがきで7円、封書で21円である。紙煙草もやすい。30円単位、しか封を切って一本でも売ってくれる。煙草の持ち歩き不用は合理的だ。灰皿もスタンド式のものが目に付いた。最も煙草を吸う人は決して多くない。煙草嫌いの私は助かった。女性は殆ど吸わない。
車はドイツ製が多いが、メルチェデス・ホンダと言う訳の分からない車があった。イラン車の部品の大部分はドイツ製でノックダウンしたものと聞いた。
中国製(オモチャ)や北朝鮮製(雑貨)、スリランカ製(紅茶)など輸入品は多い。殆ど包装してくれないで、袋に入れて渡してくれる。(空港の売店では荒っぽく包装してくれた)領収書も全くくれない。
ホテルに祈りの部屋
イスラム教徒は一日に3回〜5回、地に伏してアラーの神に敬虔な祈りを捧げる。メッカの方角の壁にはアーチ型の壁籠(ミフラープ)が飾ってある。
ホテルにもレストランにも祈りの部屋がある。
ホメイニ革命後、シーア派(世界中のイスラム教徒の一割しか占めないが、イランでは国教)が勢力を得て、シャー(パーレビ国王)の進めてきた西欧家政策が徹底して否定され、ホメイニ死後の現在も誇り高いイラン人(ペルシャからイランと国名が変わったのは1935年)はササン朝大ペルシャ帝国(最盛期は六世紀)へ帰ろうとして、(日本で言えば聖徳太子の時代に帰ろう)イスラム教義を徹底しているように思われる。
街の至る所にホメイニとカメネイの肖像写真が飾ってある。すべての女性はチャドールを身に付けましょうと言うポスターが貼ってある。
ルイ18世紀様式で立てたシャーの夏の宮殿は今、博物館、美術館として公開されている。シャーの造ったディスコは倉庫になっていた。
旅の後半は好天気続きの中に日本の秋と変わらない気候であるが、乾燥しきった砂漠の国道を旧約聖書の世界を訪れる旅であった。日本人は学者グループを除いて、絶対と言っても良いほど行かない所である。イランに近いザグロス山脈沿いの自動車道を、羊の群れを見ながら専用バスで走りながらイラン人ガイドがこう言った。
「神の声が聞こえるでしょう」
サボテンこそないがアリゾナを思わせる禿山のどこに神が居るのか、私には分からなかった。イラン人ガイドはまた工言った。「イランの山は綺麗に写真に写ります、生物が居ないので聖霊が居ないのです。木があると聖霊(木霊)がフィルムに感光して写真がぼやけるのです。すべての生物はオーラを出しています。科学では説明できない聖霊の世界をあなたは信じますか?」私は信じると返事をした。現在、三級気功師の私は、時々オーラも見える。現在なら自信を持って「シュアー」と答えると思う。そのときはなんと無くそんな感じになったのである。
宗教心の薄い日本人は、科学で説明できるものしか信じない傾向があるが、現在の私は確信を持って、科学が解明できる事は、宇宙を含めた壮大な自然のごとく一部で、説明できない世界が確実にある.それを信じないのは片手落ちと考えている.当時の私は神の声は聞こえなかったが聖霊の存在は訪れた旧約聖書の世界を見学し浸りながら、神秘的雰囲気の中で確かに感じることが出来た。
電撃的インタビュー
アフワーズで私たち日本人グループが地元放送局から電撃的インタビューを受けた。日本人が未だ珍しかったのである。日本の家族について離してくれと言うのである。 当時英会話教室「バイリンガル」に三年余り通っていた私が、ツアーグループの中で一番英語が達者と言うことで私がインタビューに応じた。
「テヘラン空港での目撃で、イラン人家族の親密さが分かった。日本人も第二次世界大戦前は大家族主義で、家父長のもとにまとまっていた。戦後さまざまの社会的変化、経済的理由などで核家族化している」そのような趣旨のことをアナウンサーの質問に答えて英語で話した。その日の内に全イランに一週間後に再編集されて全ヨーロッパへ放送された。
録音収録後イラン人ガイドは「イランも家父長制は崩れつつある。一夫多妻も残っているしアルコールだって密造酒はあるよ」と語ってくれた。
ユダヤ教会へは数年前に訪れた団長が撮影した人物写真を持参した。出迎えたユダヤ人が驚愕して、われわれは大歓迎を受けた。わたしも髭面の男性からキスされた。ユダヤ人は反日感情が強いと聞いていたが良そうニ反した。「半日かけてやってきたのを勘定に入れてくれたのだろう」と英語で伝えろと団長が言ったがこれは訳し様が無かった。(あたりまえだ。)ディスフールでキリスト教会と所属のクリスチャン小学校を訪れた。ヤダヤ教、ゾロアスター教と並んでキリスト教徒もすごく少数で迫害されていると言っても過言では無い。遠い東アジアの日本からクリスチャンのグループが始めて訪れたと言うので、大歓迎を受けた。先生と全生徒(クリスチャン・スクールは男女共学)が授業を中断して大きな拍手でわれわれを迎えてくれた。校庭でバスケットをしていた最上級生と一緒に写真撮影をした。バスが見えなくなるまで、先生も生徒も手を振って見送ってくれた。
チョガ・ザンビルを見学した帰路、バスを降りたわれわれを子供たちが遠巻きにしてこわごわ寄って来る。男の子と女の子は別々になって決して一緒にはならない。写真を撮ろうとすると逃げ出してしまう。日本人を全く見たことも来たこともきたこともない部落の子供たちだった。ガイドが飴を袋に入れて渡すと子供たちで取り合いとなって飴が宙に舞った。それを拾って口に入れた。原住民部落や中国奥地で見られそうな光景をイランでもお目に掛かるとは想像もしなかった。
ペルシャ語アラカルト
ペルシャ語はご存知の通り、「なめくじ」の這ったようなアラビヤ文字を用い、インド・ヨーロッパ語系であるが英語・オランダ語・ドイツ語に影響を与えている。父、母、兄弟などは発音も似ている。間違い無くペリシャ語が起源であろう。ペルシャ語でありがとうは何と「メルシィ」これはフランス語がペルシャ語になったものである。もっとも「マティシャ・ケラム」の方が多く使われる。
耳を傾けるとフランス語の発音にかなり似ている。概してイラン人の英語の発音はかなり北米英語とそれとは異なり分かり難い。さる美術館で聞いたイラン人ガイドの発音は余りにもフランス語的で聞き取り難かった。「インターナショナル」を「アンティオナシオナル」と発音する。旅行中40余りのペルシャ語を覚えたが。その幾つかをご紹介しよう。
ありがとう マチティシャケラム
こんにちは サラム
さようなら ホダー・ハーフェス
はじめまして ハーレシ・マーチェトウレ
どういたしまして ハーヘッシュ・ミコナム
おげんきですか ホーレ・ショマーフーベ
おいしい ホシアゼ
あなたは美しい ショマー・アスキー
あなたが好きだ ドゥ・セット・ダラム
乾杯 ベサラ。マティー
またあいましょう ドバーレ・モラガート。コニーム(これは「また御目文
字仕り度し」と言った感じだとイラン人ガイドは言っていた。
ていた)
われわれグループには英語をかなり理解する人がいてイラン人ガイドと英語で冗談も言ったりした。
_Our buss dos’nt go as a father_
_Let’s go tomb tomb_
この2つはガイドに通じなかった.当たり前!
「我々のバスは遅々〔父〕として進まない」
「まあ、ぼちぼち(墓地)行こうよ」
というつもりだったらしい。
イラン人ガイド語録
私は3人のイラン人ガイドから色々な事を教わった。
「男女、1才にして席を同じくせず」
「18才兵役、それが終わって勉強したい人は大学へ行く」(大学は男女共学)
「亡くなった人の写真を街に貼って皆で悲しむ」
「イランはもう1度革命が起きて西欧化するかも知れない」
「ポリスは何処の国でも馬鹿だよ」
「日本からのビザはもうじきいらなくなるかも知れない」
「イランでは爆発的に人口が増えている」
「イランはスポーツが強いよ、」
「斉藤元イラン大使は知っているよ」(斉藤邦彦前アメリカ大使―私と成蹊学園で同期―)
「イラン人は誇り高い民族だ」
「イスラム建築は世界で最も美しい」
スタンド式の献金箱
イスファハーンの街で若い日本人男性に出会った。
「1年かけて世界住を回るつもりでいる。大晦日には日本へ帰りたい」と言っていた。出発時、成田で出発日も帰国日もわれわれと同じと言う日本人イラン旅行グループに出会った。黒っぽいチャドールを見に纏った若い女性が多かった。シラーズで再開したときその内の一人は、「聖書は何も知らないけれどイランはエキゾチックで面白い」と言っていた。成田での再開を約束して別れた。
公園など人の集まる所に、スタンド式の郵便箱のような献金箱がある。子供が硬貨を入れているのを見て私も1000リアル札を献金した。イランの治安は非常に良い、危険は全く無い、スリもかっぱらいもいない。イスラム教徒は罪を犯すと厳罰に処せられるそうだ。
現在戦争はしていないけれど、いたるところに銃を持った兵士がごろごろしている。少々目障りだった。空港では3回荷物とボディチエックを行う。(すべて男女別である)
団体客と分かると少しは下限してくれるが、時には小銭入れの中まで調べられる。パスポートのチェックの際、テレヴィの受像機の前に兵隊三人が貼りついていた。私も久しぶりに「コーリヤ? チャイニーズ?」と聞かれた。大都市では「ジャポネ」と分かるようである。
バスの中から劇場や映画館、音楽ホールらしいものを探したがそれらしいものは全く見当たらなかった。ガイドに聞いたら「余り無いよ」との返事だった。
工事中の現場(新築・増築・改築)は街中では結構多かった。柱は細く、梁は小さく、建築足場の貧弱なのには驚いた。良くこれで事故にならないものだと感心した。高い足場を歩くのは平気な私も、この足場では二の足を踏んでしまいそうだった。
地震は余り無いが、歴史的大地震があったのはご存知の方も多いと思う。
市街地の交通信号(シグナル)はあるが数は少ない。人も車も殆ど信号無視!
「みんなで渡れば、怖くない」と言った感じである。街に自転車やバイクは少ない。時々馬に乗った年配の人を見かけた。浮浪者はいるが乞食は1度も見かけなかった。公園でテント生活をしている人たちはいた。ま他、キャラバン・サラエさながら駱駝ならぬ自動車で、テントを張りながら旅をしている家族も見かけた。レストランやホテルで時々音楽を流しているが、私が聞いたのはベートーベンの第九シンホニーと、チゴイネル・ワイゼンとペルシャ・ダンスミュジックだった。午後4時半になると、寺院や公園でコーランの読経のテープが流される.さっぱり音楽的ではない。
都会でも8時閉店
バザールや空港でミューズイック・カセットテープやCDを探した。イラン製の物は安いが録音が悪い。ソニー製品の音は非常に良かった。種類はそれなりに揃っている。値段は安い、日本の六分の一くらいか。中心街のそこここにクリスマス・ツリーのように電球をつるした飾り付けがある。大売出しかと思ったら、何と忌引きのサインだった。一週間、門前に出す習いと聞いた。交通事故による死者が最近増えたとガイドが嘆いていた。
都会でも夜8時になるとお店は殆ど閉まってしまう。バーもキャバレーも無いし、女性に声を掛けても、振り向いてもくれない。お店の女性に日本のおみやげをプレゼントしても余り嬉しそうな顔もしない。恩を肌で返してくれる女性のチヤンスは全くないし、キャバレーで男損女費と言うことも無いし、夜の巷をうろついてもアドベンチャーは何も無い!
お酒も飲めないし、晩遊引力もないし、早退性原理を守る以外はすることが無いのでホテルへ帰ってコーラを飲んで、毎晩早く寝ることになる。本当に健全な毛沢東の弟(毛沢山)の10日余りを過ごした。毎朝、寝覚めも良くバテドー氏病にはならなかった。
風呂もトイレもびっくり
ホテルはイスファハーンのシェイクーロト・フォルラモスを模して造ったアバシー・ホテルを一流として、バフタランのキャラバン・サラエさながらの木賃宿(これがこの町ではベスト)間で随分格に差のあるホテルに泊まった。
ハマダンでは竣工後一年足らずのやたら照明の明るいホテルへ泊まった。一流というのに、窓は閉まらず、水は止まらず、風呂は滑りやすく、お湯はやっと出るがぬるい。バスタブに栓が無い。シャワーとして使えということだと後から聞いた。鍵は一分ぐらい苦闘しないと開かない、閉まらない。トイレの水が流れない。隣の音がうるさい。エレベーターが動かないのも当たり前のことらしい。汚物をペルシャ風の壷(結構立派!) に溜めた水で流すのも当たり前である。幅が2メートル70センチもあるベッドも在った。女性2人をはべらしてその昔王様が寝たそうな。
観光に力を入れれば、石油、ガス、農業、鉱工業と並んで外貨を獲得する一大産業になるだろうに、西欧化を放棄した結果、観光客を呼ぶ魅力は無いと言わざるを得ない。せっかくの遺産も何も手を加えていないも同然で、破壊されたままで訪れる人も稀と言う状況もあった。
極致の美のイスラム建築
イスラム建築は本当に美しい。建築家である私はペルセポリスとモザイクタイルの美しいモスクを見たかったから、この旅に参加したのである。偶像崇拝禁止のため、絵画・彫刻は発達しなかった。ミニアチュール(細密画)とアラベスク(幾何学模様)が美術の大半を占める。建築はドーム(円屋根)とミナレット(尖搭)を組み合わせたモスク(寺院)やマドラサ(学校)が特色である。個々の遺跡や建築について詳細な説明は別の機会に譲ることとして、一口に言うとアラビヤ文字を図案化し、それに植物模様を組み合わせ、左右対称の幾何学模様を構成して作り出したアラベスク模様のイスラム建築は、美の極致の一つであろう。建築に関心の無い方も一見の価値は十分にある。
イスラム建築はインド・スペイン・エジプト・トルコ・中国でも見られるが、イスファハーンとシラーズのモスクは感動的に美しかった。
アリ・カブ宮殿に素晴らしく音響効果の良いホールが合った。ホールの一ヶ所に建つとものすごく声が響く。プロについて長年レッスンを受け続けている(アマチュア声楽家でもある)私は思わずヘンデルのオペラ、「セルセ」の「オンブラ・マイフー」(ペルシャ王のアリア)の一節を歌った。天井の高いかなり広いホールだったが、皆がびっくりする位声が響いた。近くに居たペルシャ人からブラバーと声が掛かった。ちなみにブラバーは誤り。女性にはブラバー、男性にはブラボー、」2人以上にはブラビーが正しいイタリア語である。
想いを古代に馳せて
町の現代建築には技術的には見るべきものは殆ど無いと言って良いと思うが、デザイン的には参考になるものが、そこそこには在った。アルミサッシュは少なく、スチール製や木製建具が多い。
テヘランでは各国大使館は国旗を掲げていない。日本大使館も同様であった。何時戦争が始まるか分からないので攻撃目標とならないよう、国旗掲揚をしないのだと聞いた。
イスラム教徒はインドネシアが一番多く・パキスタン、バングラヂィシュ、インド、ナイジェリア、トルコと続きイランはエジプトと並び決して多くは無い。紗語に旧約聖書の周辺の遺跡見学にふれるが、研究者以外には興味は少ないと思われるので主なものを旅の順序に羅列しようと思う。
1・旧約聖書にメシアといて記されているペルシャ帝国の創設者キュロス大王
の宮殿跡のパサルガダエ。王の霊廟、切妻型石棺。
2・ダレイオス一世(聖書名はダリョス)によって創設されその子アクセルクセス
に敬称されたペルセポリスの遺跡。そのスケールの大きさ、豪壮さはわれ
われを圧倒した。壮大な廃墟はありし日の栄華を彷彿させ想いを古代居飛
躍させて幻想の世界に遊ぶ愉しみを与えてくれた。深い感動に包まれ時の
立つのを忘れ、気がついたときにはあたりは夕闇に包まれていた。
3・スーサ(聖書は王都スーサ)には旧約聖書のダニエル書を記したダニエル廟。
ダイオレス1世は始め歴代の王が築いた広大な宮殿遺跡。
ここから有名なハンムラビ法典が発見された。
4・ダイオレス大王戦勝記念碑のベヒストウンの磨崖浮彫図は碧空と岩肌の微
妙な調和を得て、見る者に鮮烈な印象を刻み付ける。
遠くて定かには見えなかったが、浮彫りの楔型文字がびっしりと記されている。
考古学者ローリンソンは子の碑文から楔型文字解読の鍵を見つけた。
イランの自然は決して美しいとは言えない。屏風のようにそそり立つ巨大な怪異の山並みはザグロス山脈である。その山裾に沿って南から北に向かって縦走する。厳山の鋸の歯のような鋭角の峰や代にも珍しい色の岩層、火炎のような斜面や谷は、日本の美しい穏やかな緑の稜線を見慣れたわれわれの目には恐怖に似た、たじろぎさえ覚えるほどである。
山に木は少ない。在っても生気が無い。緑色も薄い。土の色も茶色で、川の流れも街中では濁っている。
文明の光は東から西へ
西アジアのイランへ旅して日本人が「脱亜入欧」で忘れていたアジア人の原点を様々な形で思い起こさせてくれた。
TEx Oriente Lux,Ex Occidente LexT
と言うラテン語がかたるように「文明の光は東から西へ移った」と言う事も実感できた。
そして、神秘を感じさせる何かがイランにはあった。
イラン秘境野旅は、私の未知の世界を探る喜びと、好奇心を充足させてくれた。これからも多くの分野に亘って、未知の世界に挑戦して行きたいと思っている。
このような旅の機会を与えて下さった神に心から感謝したい。
マティシャ・ケラム
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